自由すぎるシングルファーザーの頭のなか

自由に生きる三姉妹のシングルファーザーの頭のなかがダダ漏れ。

シングルファーザーの子育て2

三姉妹をひとりで世話していると、とても細かいところまでは手が届かない。自分のことは自分でやってもらわなければならない。小学校からは「低学年の間の忘れ物は親の責任です」と言われているのだけれど、毎日机の上に積まれるプリントの山を処理するのはなかなか大変で、いつ誰が何を持っていかなければならないか把握するのが難しい。そうなると、自分のことは自分でやってとなるのだけど、いまのところは大きな問題もなくやっていけている。親が頼りないと、子どもがしっかりしてくれるものなのだろうか。


子どもたちにはiPhoneiPadを渡してある。わが家にはテレビがないので、代わりにYouTubeで動画を観ているようだ。何も言わないとずっと観続けるものかと思っていたが、意外と長時間観ることはない。本やマンガを読むのが好きなので、読みたいだけ読ませている。最近は本棚がいっぱいになってきたので、ひとり1台のKindle電子書籍を適当に入れて渡している。あとはデジカメで写真や動画を撮って遊んでいる。保育園児のころから子ども向けのプログラミングをやらせているので、やりたいと言えば子どものために置いてあるMacBookを使わせている。テクノロジーに触れてクリエイティブに育って欲しいと考えているので、電子工作キットなども含めいろいろと触らせてみている。いまのところは、それほど強い興味を示さないのだけど。


「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今存在していない職業につくだろう」と言われている。未来は予想できない。親の常識は、子の常識ではない。どんな世の中になっても、そこでおもしろくサバイバルする能力を身につけて欲しい。世界的に見ると、日本の大学はブランド力がほとんどないようだ。海外に行くように勧めているが、そのへんはまだイマイチよくわかってないようだ。


基本的にダメだと言わないので、事前に教えるよりも、自分で失敗して学ぶことになる。先日、長女が茶碗を何枚も重ねて運ぼうとしていた。危ないからやめなさいと止めるところだが、そのまま放置することにした。その代わりに、茶碗を落として割れたときに怪我をしないように、どう行動するかをシミュレートしていた。そうすると、案の定、茶碗を落として割ってしまった。想定通りなので、すぐに片付ける。長女を見ると真っ青な顔をしてめずらしく素直に謝っている。十分反省しているようだ。とくに何も言わずに済ませる。事前にダメだと言うのは親としては簡単だし楽ではあるが、失敗を経験するというのは子どもにとって重要なことだろうと思う。

シングルファーザーの子育て1

あまり怒ったり叱ったりしない。いったん厳密に「怒る」と「叱る」を区別して考えてみる。怒るというのは感情の高まりなのだけど、人間はそれを6秒間しか保持できないらしい。つまり、6秒経てば怒りの感情は覚める。だから、怒りそうになったら、心のなかで6数える。そうすると頭が冷静にはたらくようになる。


そこで、叱るかどうか考える。未来は予測できない。自分の常識は子どもたちの時代の常識ではない。いま自分が叱ろうとしていることは、本当に普遍的なんだろうか。そう考えると、叱ることはいまその瞬間の自己満足である気がしてくる。そうこうしていると、叱る機会は自然と減る。


子どもたちがイタズラをしている現場を目撃するのだけど、何も言わずに通り過ぎる。おもしろいもので、そうすると「パパなんで怒らないの!?」と子どもたちに驚かれる。うん。それ、別に怒るようなことじゃないから。そもそも、そんな一般常識なんかにとらわれないで欲しい。


ただし、何でもかんでも許しているかというとそんなことはない。大きな足音で歩くなど、まわりに住んでいる人たちが嫌な思いをするのはよくない。そういうときには「静かにしなさい」と言うかわりに「まわりに人が住んでるよね?」と問いかけるようにしている。そうすると、子どもたちも理解しているので、おとなしくしてくれる。


成長するにしたがってやらなくなるであろうことに関しては、叱らないことが多い。例えば壁に落書きをする。大人になっても落書きしているとは思えないので、それは放置している。まあ、商店街の落書きなんかをはじめたら注意すると思うけど。家の壁なんて汚しても敷金が返ってこなくなるだけなので、何も問題はない。逆に成長してもやり続けられたらすごいなと思うようなこともたくさんある。


そんな感じだから、子どもたちに対しては基本的にダメと言わない。僕は自分で自分に対してブレーキをかけてしまうところがあるので、ブレーキの壊れたクリエイターを見るとうらやましくなってしまう。だから子どもたちには、自分で自分にブレーキをかけない人間に育って欲しいと考えている。

半歩先をいく

なんとなく自分の考えていることが世の中よりも半年ほど早いと感じることがある。興味を持っていたことが、半年後に騒がれ始める。プログラマーがもてはやされていたの時期に、これからはデザインをやっていくといいんじゃないかと考えていた。それから半年ほど経って、次第にデザインの重要性が話題になるようになってきた。iPhoneはアプリを開発するための仕組みが出てすぐにアプリ開発に取り掛かった。ただつくるだけではなくて、App Storeに並べるところまでやった。当時、日本でそこまでやっている人が少なかったので、それからしばらくはiPhoneアプリの開発だけで生活することができた。


もともとWindows向けの業務ソフトを開発販売する企業に所属していた。会社では当然Windows用のプログラムを書いていたが、これからはWebだろうということで家ではWeb用のプログラムを書いていた。おかげで会社を辞めてすぐにWebの仕事ができるようになった。今度はWebの仕事をしながら、趣味でiPhoneアプリ開発に手を出した。結果は上記の通り。


SNSは早い時期から始めていた。Twitterは先進的なユーザーの間で話題になり始めたところでユーザー登録をした。当時はまだTwitterクライアントというものが存在しないような時期だった。Facebookは様子を見ていたが、日本語化された時点で登録した。Facebookページがつくれるようになると、すぐにページを公開した。Facebook広告もすぐに試して、運営していたページは当時のランキングに入るくらいのファン数を獲得していた。


いまでは情報からすこし距離をとるようにしているが、以前はメルマガを1日に数百通、ブログのRSSフィードを1日に数千件目を通していた。日本の人気記事と海外の人気記事を比較したりもしていた。その上で自分でも情報発信をしていたので、かなり皮膚感覚が磨かれたような気がする。この人やこのキーワードは要チェックだなと思っていると、しばらくして頻繁にメディアに登場するようになる。


iPhoneアプリ開発こそ早かったけれど、その他については一歩先まではいっていない。半歩先。いま初代Apple Watchをつけているのだけど、予約して発売日に買ったわけではなくて、ひと月ほど様子を見て購入している。一歩先を行くリスクをとっていないのだ。それは、将来は予測できないという考え方とも関係する。一歩先を行くには将来を予測しないといけないのだ。半歩先であれば、皮膚感覚で捉えられる。


半歩でも先をいければ、いまごろちょっとした成功者になっていそうなものだ。ところが、半歩分の先行者利益をお金に変えるというのが得意ではないことを自覚している。ぼやぼやしているうちに世の中が追いついてきて、そのうちうまいビジネスを立ち上げる人が出てくる。それを見ながら、おもしろいなあなどと感じる日々を送っている。

将来は予測できない

将来は予測できないと考えている。それが大前提だ。だから常にフラフラとしている。どこへでも動けるように。プログラマーであってもデザインやマーケティングなど他の分野にも首をつっこむ。僕が書く程度のレベルのプログラムであれば、そのうち人工知能が人の代わりに書くようになるだろう。でもそのことに不安はない。人工知能は当分の間は僕のようにフラフラとはできないだろうから、人工知能にできないことをやるだけだ。


将来は予測できない。だから地図は役に立たず、コンパスが重要となると言われている。僕はそのコンパスのひとつは皮膚感覚だと思っている。今の状況、これからの変化を敏感に感じ取ることができる皮膚感覚があれば、どうにか生き残れるんじゃないかという気がする。皮膚感覚を磨くには、動きまわることが一番だ。ブログ全盛期にブログを書き、SNSが流行ればいち早く情報発信をし、フィードバックを得ながら皮膚感覚を磨いていく。いま何が流行っているのか、こういう風に石を投げればどんな風に波紋が広がるのか。


ここまでにも書いたように「進化は過去から見ると偶然であり、現在から見ると必然」なのだ。これからどう成長しようかと戦略を立てても、それは外れる可能性がある。うまくいったときには、それは単に偶然でしかない。先のことを考えすぎるよりも、いまやりたいことをやる。その時々で興味のあることに手を出す。動き回っている限り、ストックはどんどん増えていく。


ある時期から、長期計画を立てなくなった。もしかしたら、震災がきっかけだったかもしれない。大きな力の前で、僕らはあまりに無力だ。将来のためにいまを我慢するよりも、いまやりたいことをやるべきだと考えている。アンテナを張って常に動いていれば、やりたいことというのは世の中の流れからそれほど外れてはいないと思う。やりたことをやり抜く必要もなくて、やりたいことが変わっていってもいい。世界は変わっていくのだから。

スタイル2

手ぶらで歩いているだけでなく、家の中にも物を持たないようにしている。使うかもしれないというレベルの物は捨てる。それでも何でも捨てているわけではなくて、本とガジェット類は必要以上に所有している。見渡してみると、MacBookが3台、iPadが3台、iPhoneが3台、Kindleが3台、デジカメが6台ある。本もそうなのだけど、これは子どもに使わせようと考えて処分せずにとっている。MacBookには教育用のプログラミング環境を入れているし、iPadiPhoneは子どもに持たせている。Kindleには児童書を入れて渡してある。デジカメ1台とチェキも子ども用に使わせている。子どもにはクリエイティブに育ってほしい。


それ以外は本当に必要なもの以外は持たない。音楽は以前はTSUTAYAで借りたCDをハードディスクに取り込んでいたが、iTunes Storeで購入するようになった。本は買ってきた本をスキャンしてハードディスクに入れていたが、いまではAmazon電子書籍を購入している。こうすると、データをハードディスク上で自分で保有する必要がなくなる。すべてクラウド上にあって、好きなときにダウンロードすることができる。デジタルデータすら所有したくないのだ。


平日のランチはコンビニのサンドウィッチか、ランチ相手を捕まえられたときには外に食べに行く。土曜日はほとんど外食。最近は価格がやや高めのものでも気にせず食べに行くようにしている。それは体験に対する対価で、食事情報がコミュニケーションの主役になることを考えると、それなりにお金をかけるべきだと考えるようになった。夜はざっくりと栄養のバランスを考えながら料理をする。こだわりというものがない自分が唯一こだわっているのが、子どもたちに手作りの温かい料理を食べさせるということ。おおよそシングルファーザーらしからぬ自由な生活を送っているけれど、これだけはストイックにやっている。


土曜日は子どもたちを学童保育にあずけて、自分のための時間を確保するようにしている。この土曜日の使い方が勝負だ。イベントに参加する、イベントを主催する、誰かをランチに誘う、アート展などに顔を出す。考える前に動くようにしているので、スケジュールが空いたらとりあえず何も考えずに場所をおさえてイベントを開催したりしている。

スタイル1

基本的にいつも手ぶらで歩いている。通勤は完全に手ぶら。以前はMacBookや本をバッグに詰め込んで、肩を痛めるほどの荷物を持ち歩いていた。あるとき、こんなに荷物が必要だろうかと考えたところ、ほとんどのものが不要であることに気がついた。それ以来は、バッグを持つのをやめた。iPhoneの充電ケーブルを自宅とオフィスに置いておけば、それで済む。どこかに出かけるときにも、iPhoneさえあればなんとかなる。いざとなればiPhoneで遠隔地のサーバーにアクセスしてプログラムを修正することもできる。逆に言うと、手ぶらで歩いていても仕事ができてしまうので、気をつけなければと思っている。


洋服はほとんど持っていない。季節ごとに毎日だいたい同じような服を着ている。まったく同じジーンズを数本。夏はTシャツ、冬は無地のシャツ。ほぼユニクロ。本当はスティーブ・ジョブズのように毎日同じ格好をしていたのだけど、そこは適当なので、ほぼ同じ格好をしている。そうすると、朝、服を選ぶ時間が不要になる。どれを着ても同じなので。また、あの人っぽいという「らしさ」が出ていいんじゃないかと思う。「スシが食べたい。」と言い続けて「スシの人」と認識されるようになったのと同じ感じで、見た目についてもキャラが立つといいんじゃないだろうか。


髪は何かの偶然が重なってたまたま金髪っぽくなっているけれど、とくにこだわりはないので夏になったら坊主頭になっている気がする。ただ、詩人になる前はクリエイターになりたくて、クリエイティブの象徴として髪の色を変えてみた。見た目を変えると内面も影響を受ける。服装も20代のころは暗めのものを着ていたが、最近は明るめのものを選ぶようにしている。オシャレには興味がないので、他人からどう見られるかよりも、自分にどういう影響を与えるかを基準に選んでいる。なんだか同じような服を着続けていたら、同じような人生が続く気がして。


趣味は写真ということにしている。言うほど撮ったり観たりしていないのだけど。Facebookに子どもの写真をアップしたり、イベントで必ずカメラをぶら下げているので、まわりからは写真を撮る人だと見られている。イベントが終わった後には、写真をくださいというリクエストをもらうことが多い。写真を撮る人というポジションが確立すると、イベント中でも自由に写真を撮れるようになるので便利だ。

仕事術2

ライフワークバランスという言葉が苦手だ。どちらかと言うと、積極的に公私混同したいと考えている。趣味で書いたプログラムやアプリが仕事につながるような感じ。趣味でつくっていたiPhoneアプリの開発が仕事になったこともあれば、実現できるか聞かれたシステムをすでに個人でつくって公開していたことから新規プロジェクトが立ち上がったこともあった。もちろん、メリハリをつけて遊ぶときは遊ぶでいいと思う。それでも、仕事と遊びは相反するものではないはずだという考え方は常にある。


ひとり親になる前から、会社員時代は定時で帰るのを心がけていた。定時になったらどんなに中途半端な状態で仕事が残っていても帰る。例えばプログラムのバグを修正しているとき。この修正まで終わらないと帰れないというふうに考える人も多いと思う。そこをあえて帰る。帰りの地下鉄のホームに向かいながらぼんやり考えていると、地下鉄が到着する頃には解決策を思いついている。翌朝、少し早めに出社して静かなオフィスでその解決策を実行する。そうすると、残業することなく仕事が終わっている。コツは、帰る直前に解決すべき問題について一旦整理しておくことだ。整理して頭に入れておけば、歩いている間になんとなく道筋が見えてくる。そうやって家族と過ごす時間を無理なく確保していた。


TODOリスト(やることリスト)はシンプルに管理している。オフィスにいる間に解決すべき課題はタスク管理ツールで誰もが見える形で公開している。日時が決まっている予定はGoogleカレンダーに登録している。TODOリストにはそれ以外のタスクが入っている。よくタスクを整理するタスクに追われている人がいるのだけど、TODOリストをシンプルに保っていればその必要がない。僕はClearというiPhoneMacで動くアプリを使っている。このアプリは優先度の設定というものが存在しない。タスクを上下に動かして、順番を決めるだけだ。人間はシングルタスクしかできないと考えているので、TODOリストは上から順に実行していくというのが自然だと思う。Clearというほとんど機能のないアプリは、この考え方にマッチしているので使い勝手がいい。


整理をするのが苦手だ。机の上が常に散らかっている。これを解決するために、ペーパーレス化を進めている。コピー用紙の裏紙にメモをとっていたのだが、これをiPad手書きメモアプリに変えた。もらった書類はスキャナでハードディスクに取り込むようにしている。残業も整理整頓もそうなのだけど、やりたくないことや苦手なことをしなければならない状況に自分を置かないというのが重要だ。


技術者なのでスキルアップというのはとくに意識するところだが、社内では上から数えたほうが早いほど年上になってしまった。若い技術者と真っ向勝負しても勝ち目がない。そこでちょっと考え方を変えてみる。レベル100の人がスキルアップして110になったとする。組織的には+10だ。僕は自分の専門スキルをアップするよりも、他のメンバーが+1するような働きかけをしたいと思っている。そうすると、オフィスに100人いるので、組織としては+100になる。そういう「座敷わらし的ポジション」を狙って、全社員に個人メルマガを投げつけたり、社内Facebookグループにポンポン記事を投げ込んだり、社内外問わずイベントを開催したりしている。