自由すぎるシングルファーザーの頭のなか

自由に生きる三姉妹のシングルファーザーの頭のなかがダダ漏れ。

死を想う

人生も半分まで来たわけだが、とくに何の実績も残していない。何か残していきたいなあと考えているので、これからは詩人として作品を発表していこうというところだ。死んでからも作品を残したいという欲はない。ただ世の中に向かって石を投げつけて、どういう反応があるかを見てみたいだけだ。だから、自分が死んだときには作品は消えてしまっても構わない。


いつもいつも死について考えているわけではなく、ときどきふと感じる瞬間がある。たとえば、桜の季節。この桜をあと何回見ることができるだろうか、と考える。予定通り生きれば、あと36回だ。でも、明日死ぬかもしれないから、そうしたらいま見ているこれが最後だ。飲み会など人が集まる場では、次回は全員集まることができるのだろうかと考える。誰かが今夜の帰り道に車にはねられて死んでしまうかもしれない。


スティーブ・ジョブズだったら、明日死ぬとしたら今日何をすべきかと考えるところだろう。でも僕はそんなことを考えるよりも、今日誰とランチをするかのほうが重要だ。生きる意味などない。使命なんてものもない。これは生物学的にそういうものだ。意味なんてないのだから難しく考えずに、ノリと直感でそのときどきで一番おもしろそうなことをやればいい。本を書きたいと思いついたから、書く。といっても、生きることの意味を見出そうとする人を否定するつもりはない。いろんな考え方があっていいと思うし、使命感に駆られて偉業を成し遂げる人もいるのだから。


子どものころには「今日できることは今日しなさい」と言われたものだが、僕が言いたいのは「明日できることは明日しよう」ということだ。しなければならないと思っていたことが、明日にはしなくてよくなっているかもしれない。それよりも、今日は今日できる一番おもしろいことをやったほうがいい。調子がよくなければ、休めばいい。


憧れのあの人も死ねば一緒なので、自分はあの人に比べてなんてダメなんだと考える必要はない。いいところはお手本にすればいいし、とても真似できないと思うようなところは諦めればいい。死というシステムがある以上、行き着くところは同じだ。いまこの瞬間がおもしろければいいと思う。と言いつつ、クレイジーな人たちを見ると、自分はいかにつまらない人間なのかと考えてしまうのだけど。