自由すぎるシングルファーザーの頭のなか

自由に生きる三姉妹のシングルファーザーの頭のなかがダダ漏れ。

仕事術1

あらゆることの判断基準が「おもしろいかどうか」なので、仕事もおもしろくないことはやりたくない。それなら会社員なんておもしろくないんじゃないかと言う人もいるかもしれないが、会社員でもやり方しだいではどうにでもなる。ただ、その企業の文化の合う合わないはあると思う。


まず当然ながらスーツで仕事してもメリットがあるとは思えない。いま働いている宮崎の会社では短パンで仕事している人もいて、金髪の僕からしてもそれは社会人としてどうかと思う。でも、その土地の気候に合った装いで仕事をするということは大切で、スーツなんて日本の気候にはぜんぜん合っていない。


それからBGMは欠かせない。イヤホンやヘッドホン禁止だとつらい。テンションの上がるBGMを見つけるということは、仕事の生産性を上げることにつながる。カイゼン活動だ。最近は、チーム内でBGMを投げ込むチャットルームができて、楽しくカイゼン活動にはげんでいる。遊んでるんじゃないからね。カイゼン活動だからね。


僕は以前から「チャット駆動開発」を実践していて、チャットでおしゃべりをしながら開発をしている。雑談の中から生まれたアイデアを採用したり、雑談の中からタスクを拾い上げたり。これを効率よくやるために、チャットの中からタスク管理ツールにタスクを登録するプログラムをつくったりもした。思考だだ漏れチャットルームも設けて、Twitterではつぶやけない仕事についてつぶやいたりしている。それを他の人も見れるようにしているので、僕が何をしているかとか調子がどうかというのがチームメンバーが把握できるようになっている。


リモートワークは、ひとり親には必須だ。子どもが学校を休まなければならないときに自宅で仕事をする。リモートワークとチャットは相性がいい。思考だだ漏れチャットルームのおかげで自分の状況が伝えられるし、ほかのメンバーの様子もわかる。孤独感も感じにくい。ひとり親でなくても、気分を変えるためにカフェなどでリモートワークをするのはおすすめだ。個人的にはマクドナルドでプログラムを書いているときが一番生産性が高い。


小学生のころから、夏休みの宿題は最初の1週間で終わらせていた。社会人になってからも、例えば1週間の見積りの仕事は最初の3日にで終わらせる。まあ、見積りが甘いとも言えるのだけど。残った時間は、投資活動にあてる。ニュースを追ったり、最新技術を勉強したりする。きっちり時間通りにやっていては投資時間がとれないから、それ以上先に進めないんじゃないかと思う。

三姉妹のシングルファーザー

シングルファーザーになって1年半が経った。どういう経緯でシングルファーザーになったのかは、ここでは触れないことにする。死別ではない。ひとりで3人も育てるなんて大変ですね、と言われる。まあ、大変ではあるけれど、想像しているほどではない。ひとり親に限らずなのだけど、「〜でなければならい」というのを捨てると、子育てのハードルは一気に下がる。しかも、未来は予測できないというスタンスなので、子どもたちを無理にどこかへ向かせようという気もない。気楽なものだ。


3人だと大変だろうと言われるのだけど、僕はひとりっ子のほうが大変だと思っている。3人いると子どもどうしで遊んでくれるので、親がつきっきりになる必要がない。夕飯は必ず4人そろって食べるようにしているが、最近では子どもたちだけで盛り上がって、僕は蚊帳の外にいることが多い。宿題の採点やもらってくるプリントが3人分になって処理しきれなくなる大変さはあるのだけど、子どもたちが寂しい想いをしていないというのは安心できる。


一人暮らしの経験がなく、料理はまったくできなかった。結婚してから台所に立つようになり、なんとか包丁とコンロ、フライパンと圧力鍋だけは使えるようになった。とくに圧力鍋は偉大だ。同じような材料を同じように調理すれば、最後の味付けだけ変えればカレーにもシチューにも豚汁にもなる。それが短時間でできあがる。なにより時間が貴重になるシングルファーザーにとっては、圧力鍋は無人島に持っていくもの第1位だ。


ひとり親世帯は貧困になりやすいという。他の人たちのようには仕事ができない。一方で、子育て世帯を積極的に雇用して短時間で高い生産性を生む企業もある。僕も会社の理解があってこそシングルファーザーでもフルタイムで仕事をすることができている。急に休みをとったり、早退したり。それを許容してくれる会社でなかったら、いまもフリーランスで仕事をしていただろうと思う。


僕の職種というのもシングルファーザーには有利だ。肩書は詩人であるが、仕事内容は主にプログラムを書く仕事だ。パソコンとネットさえあればどこででも仕事ができる。子どもが発熱でお休みのときには自宅で仕事をするし、病院で点滴を受けているときには病院でも仕事をする。仕事内容によってはパソコンさえ不要で、iPhoneだけで仕事を済ませることもある。それでもバタバタして自分も調子が悪いときには、遠慮なく休む。無理して仕事をしても、たいして生産性は上がらない。


女の子3人に囲まれているとさぞ騒がしいだろうと思われるが、たしかに騒がしさは半端ないのだけど、意外といまの生活で唯一テンションが下がるのが孤独感的な何かだ。孤独感的とずいぶん微妙な表現をしたが、孤独感と言ってしまうほど深刻でもないというニュアンスだ。夕方オフィスを出ると大人と会話する時間がなくなる。これが何気にジワジワくる。結婚している間に、家で友達と電話やメールをするという文化が失われてしまった。それに同年代の友達は家庭を持っていてメールしづらい。これだけが自由人である僕の唯一の課題だ。


最初に、死別ではないと書いた。覚悟して離婚して子どもたちを引き取ったので、こんなに気楽にやっていられるのだと思う。死別だとこうはいかなかったのではないかという気もする。震災でひとり親になった家庭の情報などを見ると胸が痛む。しかも父子家庭は母子家庭と違って支援制度がが整ってきたのがごく最近のことだ。震災による父子家庭には遺族年金が支払われない。とは言え、批判覚悟であえて言っておこうと思う。彼らを特例で救済しようという署名活動が行われているが、やむを得ない理由で離婚した父子家庭にも当然年金なんて補助はないわけで、そこは同じ条件なんじゃないかと思っている。よく聞く夫のDVで離婚したシングルマザーなんて救いがなさすぎると思う。もちろん、世界にひとりでもハッピーな人が増えることを願っているので、特例で救済されるのであればそれにこしたことはない。

持たない

こだわりや固執というものがほとんどない。食べ物でも着る物でも、いつも適当に済ませている。「〜しなければならない」「〜でなければならない」といったとらわれがほとんどない。そうでなければならないということを、本当にそうでなければならないのかと考えてみると、大抵の場合は答えはノーになる。


「〜しなければならない」「〜でなければならない」という思い込みにがんじがらめになっている人は多いんじゃないだろうか。僕はこれを「バラエティサンドのジレンマ」と呼んでいる。サンドウィッチを端から順番に食べていると、順番を飛ばしていきなり真ん中を食べることに抵抗を覚える。自分で勝手に決めたルールで自分をしばってしまっている。


常識だから従わなければならないと思い込んでいる人もいる。でもそれは誰の常識だろうか。どこの世界の常識だろうかと考える。考えると、必ずしも従うべき常識ではないのかなという気がしてくる。子どもがいると大人の常識で叱ってしまいそうだけど、彼女たちは彼女たちの常識で生きているのだから、大人の常識を押し付けるのはよくないなあと思う。もちろん大人どうしでも常識は人それぞれなのだから、押し付けたりぶつけ合ったりするものではない。


僕は人と比べるとブレーキを踏まないことが多いかもしれない。思いついたら走り始めている。ブレーキは踏まない。巻き込まれて迷惑をこうむる人がいるかもしれない。でも「他人に迷惑をかけるな」というのは嘘だと思っている。ただ生きているだけでも誰かに迷惑をかけている。それを見て見ぬふりをしているだけだ。もちろん明らかに嫌な思いをさせるとわかっているときにはやらない。なんとなく迷惑がかかるんじゃないかという漠然とした不安ならやる。迷惑をかけないようにとブレーキを踏むことは、それをやることでメリットを得られる人にとっては機会損失になってしまう。それは、もったいない。


ひとつの考えに固執しないから、僕の言っていることは毎回変わる。状況は常に変化し続けているのだから、言っていることが変わらないことのほうが異常だと思う。


とここまで書いたところで、この持たないということに対してすら固執しているわけではないので、何かにこだわっている人というのもそれはそれで素敵だなあと少し憧れたりもする。まあ、どっちでもいいんじゃないだろうか。

選択はノリと直感で

後悔しないこととも通じるのだけど、そもそも未来は予測できないと考えているので、最善の選択肢というのは存在しないと思っている。最善の選択肢が存在しないのだから、悩んでも結論は出ない。だからいつも、ノリと直感で選択する。もちろん悩むことに意味は無いとは思わないのだけど、仕事や子育てや作品づくりに時間を使いたいので僕は意図的に悩まないようにしている。悩まないように決めている時点で、ある程度悩みをコントロールしている感がある。


進化は「過去から見たら偶然であり、現在から見たら必然」であると大学の講義で聞いた気がする。どういうことかというと、地球上に生命が誕生してヒトに向かって進化してきたわけではなく、いろんな方向に偶然を積み重ねてたまたまヒトという種が存在しているということだ。これを現在のヒトから過去を見てみると、必然的にヒトに向かって進化してきたように見える。過去から見たら偶然であり、現在から見たら必然だ。


なんの後悔もしていないいまの僕が過去を振り返ると、正しい選択をしてきた結果としていまの自分があるように見える。けれども、選択をする瞬間瞬間を見ると、ただの偶然の積み重ねだ。これから人生の岐路に立ったときに何を選択するのか。何を選択しても現時点で見ればただの偶然だ。将来、振り返ったときに「あの選択をしたからいまの自分がある」という必然に変わる。選択する時点においては必然とか運命とかないのだから、気軽に選べばいいのだと思う。


もうひとつ。過去の判断をくつがえす判断をすることに抵抗を感じる人がいる。けれども状況はどんどん変わっていく、過去とは違う判断をしたからといって過去の判断を否定したことにはならない。過去の判断よりも現在の判断のほうが常に価値があるのだと思う。言ってることが前と違うと指摘されても構わない。世界は変わっていくのだから。逆に、同じことを言い続けてて大丈夫ですか。


つまりノリと直感で選べばいいということなのだけど、僕は常にひとつの指針を持っている。もともと誰が言い出したのかわからないのだけど、「迷ったら勇気のいるほうを選ぶ」ということだ。これは、勇気がいるほうを選んだからといって、正解の可能性が高くなるということではない。選択すること自体よりも選択した後どう行動するかが重要なのだから、勇気を出して行動したほうがいい結果に繋がりやすいということだと認識している。それに、ちゃんと選んだ感が得られるので、後悔しにくくなるんじゃないかと思う。

後悔しない生き方

幸せなことに、これまで大きな後悔というものをしたことがない。やっぱり唐揚げ定食にしておけばよかった的な後悔はたびたびあるのだけど、人生レベルで大きな後悔というのは今のところ経験したことがない。「離婚=結婚失敗」と考える人もいるかもしれないが、結婚も成功したし、離婚も成功したと思っている。学校も就職も転職もまったく後悔していないし、各地への移住も後悔したことはない。


さすがにこの歳まできて後悔がないというのは、ただ運がいいというよりも何かコツがありそうな気がする。人によっては人生の岐路に経ったときに、計算をして後悔しない方を選択するのかもしれない。けれども僕は将来は予測できないと考えているので、大きな選択をするときにはノリと直感だけで決めている。だから常にベストの選択をしているとは思えない。ポイントは選択をした後にあるような気がする。


プロスペクト理論というのがあって、同価値の2つの選択肢から片方を選択する場合、得たほうの喜びよりも失ったほうの喪失感のほうが大きく感じるらしい。つまり、選択肢が同価値であれば、どちらを選択しても後悔することになる。これが普通の人の心理らしい。ところが僕は、選択しなかった道はそもそも存在しないと考えている。そうすると、やっぱりあっちにしておけばよかったという考えそのものが浮かんでこない。


選んだほうの道で何をやるかにフォーカスするというのも大切だ。1組のトランプから1枚のカードを裏返したまま引いて、それがダイヤである確率を考える。もう1枚カードを引いて、今度は表を確認してみるとダイヤだった。さて、最初に引いたカードがダイヤである確率は変化するだろうか。なんとなく過去のアクションによって決定した確率が変化するはずはないという気がする。ところが、例えば13枚のカードを引いてすべてがダイヤであったとする。そうすると、最初に引いたカードがダイヤである確率はゼロになる。確率は変化するのだ。


おもしろい実験なので出してみたのだけど、僕はこれを「過去の選択が正しかった確率は現在のアクションによって変えることができる」ことを説明するのに使っている。どんな選択肢をとったとしても、いまベストを尽くすことによっていい感じの結果が得られれば、結果オーライなのだ。3人の子どものシングルファーザーとして頼る人のいない宮崎に移住するという選択は正しかったのか。それは、いまのアクションが決めると思っている。いまやっていることというのは、過去に引いたカードを確定する作業なのだ。そう考えると、どうやっても後悔しようがない。


だというのに、唐揚げ定食を選択しなかったことを後悔するのはどうにかならないものだろうか。

死を想う

人生も半分まで来たわけだが、とくに何の実績も残していない。何か残していきたいなあと考えているので、これからは詩人として作品を発表していこうというところだ。死んでからも作品を残したいという欲はない。ただ世の中に向かって石を投げつけて、どういう反応があるかを見てみたいだけだ。だから、自分が死んだときには作品は消えてしまっても構わない。


いつもいつも死について考えているわけではなく、ときどきふと感じる瞬間がある。たとえば、桜の季節。この桜をあと何回見ることができるだろうか、と考える。予定通り生きれば、あと36回だ。でも、明日死ぬかもしれないから、そうしたらいま見ているこれが最後だ。飲み会など人が集まる場では、次回は全員集まることができるのだろうかと考える。誰かが今夜の帰り道に車にはねられて死んでしまうかもしれない。


スティーブ・ジョブズだったら、明日死ぬとしたら今日何をすべきかと考えるところだろう。でも僕はそんなことを考えるよりも、今日誰とランチをするかのほうが重要だ。生きる意味などない。使命なんてものもない。これは生物学的にそういうものだ。意味なんてないのだから難しく考えずに、ノリと直感でそのときどきで一番おもしろそうなことをやればいい。本を書きたいと思いついたから、書く。といっても、生きることの意味を見出そうとする人を否定するつもりはない。いろんな考え方があっていいと思うし、使命感に駆られて偉業を成し遂げる人もいるのだから。


子どものころには「今日できることは今日しなさい」と言われたものだが、僕が言いたいのは「明日できることは明日しよう」ということだ。しなければならないと思っていたことが、明日にはしなくてよくなっているかもしれない。それよりも、今日は今日できる一番おもしろいことをやったほうがいい。調子がよくなければ、休めばいい。


憧れのあの人も死ねば一緒なので、自分はあの人に比べてなんてダメなんだと考える必要はない。いいところはお手本にすればいいし、とても真似できないと思うようなところは諦めればいい。死というシステムがある以上、行き着くところは同じだ。いまこの瞬間がおもしろければいいと思う。と言いつつ、クレイジーな人たちを見ると、自分はいかにつまらない人間なのかと考えてしまうのだけど。

レールを外れるということ

新卒で入社した会社を辞めてフリーランスになったときに、レールを外れた感があった。けれども、考えてみれば自営業の家庭で育って自分も自営をはじめた人からすれば、レールを外れたたんて思ってもいないんだろう。よっぽど世の中の人とは違うことをしないとレールを外れたことにはならないのかもしれない。


「レールを外れる=就職しない生き方」みたいな風潮があるのが、なんだかなあと思う。レールを外れたい人たちのレールに乗ってる人たちを見ると、レールとか考えずに好きなことをやればいいのにとおせっかいな考えが浮かんできてしまう。就職していてもレールを外れる方法なんていくらでもあるんじゃないだろうか。


僕はまず見た目から(なにかの手違いで)金髪になっていて、サラリーマンとしてどうかという状態だ。これに安っぽいTシャツとジーンズ。そのうえ、いつも手ぶらで歩いている。この前ファーストフード店に行ったら、レジの男の子に「アルバイト募集してます!」と勧誘された。サラリーマンどころか、そもそも働いていると思われていないのだろうか。


会社の会議室に勝手に社外の人を呼んでイベントを開催する。社員を集めてオレのことをひたすらしゃべるというオレオレ・リサイタルを開催する。会社にピザを届けてもらって離婚1周年パーティーを開催する。マイクを買ってきて社員からゲストをつかまえて毎週トークイベントをやる。全社員にメルマガを送り付ける。残業や休日出勤はしない。自宅やカフェでで仕事をする。会社で決められたデザインと別デザインの名刺を自腹で印刷して使う。改名して会社のメアドを勝手に増やす。僕にお悩み相談できる福利厚生を勝手につくる。世の中であまり使われていないプログラミング言語を使って製品をつくる。社内に勝手にサーバーを立ち上げて自作の掲示板を設置する。月報の自由記述欄にぎっしりと書きたいことを書き尽くす。全社員に仕事とは関係ない2万字を超えるチーム週報を送り付ける。と一部を挙げてみるだけで、だいぶひどい感じだ。これも多様性を許容するすばらしい社風のおかげだ、と会社を褒めておくので大目に見てください。


だれが言ったか忘れたが「許可より謝罪」というのあるのだが、僕は完全にこのポリシーに則って行動している。事前に許可を取るよりも、勝手にやって、怒られたら謝罪する。いちおう大人なので、コンプライアンスとかいう言葉は聞いたことがあるので、そのへんは気をつけてやっている。それでも事前にあれこれ気にしすぎて何もできないよりも、思いついた瞬間の熱量が高いうちにやってしまったほうがいいと思う。


そんな感じで考えると、就職したら負け的な発想に固執する必要はない。どのような選択をしたとしても何らかの環境の中で活動していくわけで、そこからちょっと身を乗り出してみたらレールを外れたことになるんじゃないだろうか。そもそもレールを意識しないほうが、自由に生きられる気がする。